殺風景な部屋だ。白い壁に四方を囲まれ真ん中にポツンと会議用の長机が置かれている。地下二階はどこかカビ臭くじっとりとした湿気があった。観葉植物や空気清浄機の完備された上階の大会議室とは大違いだ。まあ、あそこは社外の人間が出入りするところでこの部屋はシュワルツローズの大人が悪い話をするときに使う部屋だから当たり前なのだけれど。
長机の周りに雑然と並べられたパイプ椅子で脚を組んで、ジョージは水色のくせっ毛をくるんともてあそんだ。すこし偉いマネージャーが来るのを何もない部屋で手持ちぶさたに待っている。この部屋に来るのは三度目だが慣れる気はしなかった。今日はいったいどんな後ろ暗い話を持ち出されるのだろうと思うと憂鬱な気分になる。
はあっとため息をついていると、カチャリとドアノブの回る音がしたのでジョージは慌てて立ち上がった。
「お疲れさまですッ!」
「やぁ、待たせたね」
シュワルツのスーツを着込んだ若づくりの男はそう言って片手でジョージを座らせ、向かいにふうっと腰かけた。前髪をかき上げワイシャツの襟を指でくいと開いてみせる。
「いや、暑いね、移動だけですっかり汗かいちゃったよ」
「そろそろ夏日なんて言われてますもんねェ」
「ウン、でもこれが終わったらもう梅雨だもんねえ。まったくイヤんなるよ」
ロレックスの時計をした左手でひたいを軽くぬぐうと、さて、と男は机に肘をついた。本題に入る気配を察してジョージはわずかに肩をこわばらせる。
「某社の某さんって知ってるかな?」
というのが話の切り出しだった。アイドルスタァとして仕事で関わる多勢の中からパッと思い出し、ジョージははい、とうなずいてみせる。
「先週CMの現場で挨拶させていただきました」
「あ、そうそう。そう、で、先方がえらくジョージくんのこと気に入ったみたいでね」
どう? と聞かれた言葉の意味合いをジョージはもう知っている。それでもうっすらと血の気の引く感覚がした。考えるようなポーズを作りながらふと、この部屋に窓がない理由のひとつに思い当たった気がしていた。この閉塞的な圧迫感では嫌な話をされてもノーと断れずに首を縦に振ってしまう少年も多いだろう。半年前のジョージもそのうちのきっとひとりだった。初めてこの部屋に来たときのことをぼんやりとジョージは思い返す。
最初に枕の話がきたとき、ジョージはそれほど驚きはしなかった。どちらかといえばああ、とうとうかという心持ちで、「怖いかな?」と聞かれても「怖いけど頑張ってみます」と健気を装えたほどだ。そもそも身ひとつで上京してトップスタァを目指す時点でなんでもする覚悟はできていたし、それでいい仕事がもらえるなら構わないと思っていた。提示された報酬は駆け出しのジョージには考えられないような大手のCMの仕事で、数時間変態のおじさんの相手をするだけでそれが手に入るのなら安いものだとすら思った。
マネージャーに相手の連絡先を教わって、なにかあったとき足がつかないようメールはするなと言い渡された。数日後の夜には目立たないダウンを羽織って白い息を吐きながら都内のホテルに向かっていた。指定されたホテルの入口で見上げた建物は上品でスタッフはいかにも口が堅そうだ。
口頭で伝えられた三十二階の一室の前にたどりつくと、ジョージはすうっと大きく息を吸った。平気なつもりでいたくせに、笑ってしまうくらいに足が震えていた。でも大丈夫、演技をするのは得意だ。相手の前に立てばその人の望む高田馬場ジョージを演じられるだろう。いつものステージとおんなじことだ。
奮い立たせてノックすると目の前のドアはややあって静かに開いて、四十代くらいの細身の男が顔を出した。にっこり笑ってかわいらしく片手をあげ、ジョージは声が外に聞こえないよう黙って室内に踏み入れる。後ろ手にドアを閉めると、コンバンワ、と甘える声を出した。中年の男は小さくウッと息をのんで赤い顔をそらす。ぼそぼそした声が気まずげにどうぞと室内を手で指すのでジョージはいくらかほっとした気分になった。少なくとも清潔でこざっぱりしていて人の良さそうな男だ。初めての相手が脂ぎった好色家のジイさんになるよりはナンボかマシだろう。うながされるままスイートのソファに座って上着を脱ぐ。あの、と声をかけるととなりの男はギョッとして飛び上がった。
「あ、……えと、服、普通の私服でいいって聞いたんですケド、こんなカンジで大丈夫でした?」
「あ、う、うん。その……ステキだよ」
そういうシュミのことも考えて一応制服も持ってきてみたがこれなら着替えはしなくてよさそうか。うなずいてジョージはちらりと周囲を見やる。雑誌で見るようなスイートだ。ジョージの部屋が三つか四つは入るだろうか。壁際の小机にはグラスが並んでいる。緊張しているようだから水でも入れてやろうか。ぼんやりとそんなことを思っていると、男はそうだと思い出したように口をひらいた。
「あの、ジョージくん、お腹空いてない? ルームサービスでもとろうか?」
「あ、ありがとうございます、出る前に食べてきたんで大丈夫です」
「そ、そっか……」
妙なオトコだなと思った。これからやましいことをするっていうのにルームサービスなんて頼むやつがあるだろうか。無駄に時間を使うのも面倒だし、さっさとやることは済ませてしまいたい。そう思って大きなソファの上で身を寄せて、ジョージは男の身体にぴったりと自分の肩をくっつけた。ワイシャツの肩をびくりと震わせて男は中学生みたいに真っ赤になっている。少年愛のケがある変態のくせに、経験自体はどうやらあんまりないらしい。確信を得たところでジョージはアルマーニのネクタイに手を伸ばした。これなら自分の主導でなるべく楽になるようにヤったほうがいいやと思って押し倒そうとすると、けれど男はウワワワと暴れてそれを引き剥がした。ふかふかしたソファに背中からポスンと落ちて、ジョージはネコみたいな瞳をきょとんとさせる。善良な男は床に手をついてガバッと頭を下げた。
「ごっ、ごごこ、ゴメンなさい!」
「……ほぇ?」
「ほ、ホントはボク、以前からジョージくんの大ファンで、どうしても会いたい気持ちがおさえられなくて、――でも、こ、こんなこと、とてもボクには……」
大の男がそう言って泣きそうな顔して見上げている。ジョージは肩透かしを食らったような、笑ってしまいたいようななんとも言えない気分になった。どんな変態にも屈辱にも耐えてみせる覚悟で来ていたのにまったく拍子抜けだ。というかここで一発ヤらなかったら仕事の話はどうなるのだ。ジョージがそう思っているのが顔に出ていたのか、男は慌てて首を振ってみせる。
「あっ、で、でも、仕事の話なら融通は利くから、うちの社員にお願いしておくから、ね、ねっ!」
「はァ、……えと、ありがとうございます…………?」
そんな上手い話があってもいいのだろうか? 思うけれど目の前の男はそれで本当に満足なようなのでジョージもそれ以上は言わなかった。
ソファに座ってしばらく話をした。会社経営の四十代のオッサン(というのがなんだかしっくりくるので内心そう呼ぶことにした)はテレビに出ているジョージを見て以来のファンで、どうしてもジョージにひと目会ってみたかったらしい。こんなやり方をしてしまってゴメンねと三度は謝られた。真面目なオッサンだなと思った。その日は結局なにもせずジョージがベッドでオッサンがソファで寝て、昼に別れて事務所へもどるとCMの話が決まっていた。
オッサンとはそれから何度か「枕」をした。枕といってもかわいいものだ。ホテルで待ち合わせて映画を観てみたりトランプをしてみたり、あるいは疲れたオッサンの背中をマッサージしてやったりする。
指定されるスイートはいつも特上の一室で、人の良さそうな顔してどうしてそんなに儲けているのだとたずねれば若い時分に宝くじが当たったのを元手に事業を始めたらそれがたまたまトントン拍子に上手くいってしまったのだと言っていた。運の良さもあるけれど人望のあるタイプなのだろうなと思った。一緒にいるときたまに仕事の電話に出るのを見たことがあるが大企業の社長のわりにはちっとも偉ぶるようすがない。
「この前新人くんと飲みに行ったんだけど、言葉選びが古かったみたいで、全然話が通じなかったんだよ。おじさんくさいって思われちゃったかなぁ」
恥ずかしげにそんなことを言っては笑っていた。部下に慕われるオッサンの姿が目に浮かぶようだった。
「枕」をするたび仕事はどんどん華やかなものになっていった。レギュラーの番組にドラマのライバル役、バラエティではベテランの司会にいじってもらえていいことずくめだ。自分ばかり得をするのはなんだか悪いような気がしてやっぱりヤらないのかと聞けば、オッサンは困った顔して首を振るだけだった。ジョージと同じくらいの息子が別れた元嫁のところにいるのだそうだ。お互いプライベートには踏み込まないのが暗黙の了解になっていたのでジョージはそれ以上を聞かなかった。
かわりに普通の休みにオッサンを誘うようになった。真面目なオッサンは初めのうち「契約外の時間に会うなんて」と律儀に断っていたが、ジョージがそうしたいのだと言ったら時間の都合をつくって昼間に会うようになった。野球を観に行ってみたり、服を買ってもらったりした。なんだかドラマに出てくるやさしいお父さんができたみたいですこしだけ嬉しかった。地元の頑固な父親とは以前から折り合いが悪かったし上京して以降は連絡もとっていない。東京ではライバルを蹴落とすのに忙しい毎日で親しい人間もろくろくいなかった。
オッサンと会うと不思議とほっとした。オッサンはオッサンなので話はあんまり面白くなかったけれど、ヤマもオチもない話をしたあとはたと気がついてシュンと肩を落とすようすがおかしかった。ジョージがふざけてかわい子ぶりっこしてみせると毎回赤くなって固まってしまうのも気分がよかった。
水族館に行きたいとあるときオッサンが言った。いつもなら行き先はジョージの好きなところになるからめずらしかった。いいよとうなずいて葛西の水族館に行った。
「◯◯さん、水族館がスキなの?」
わざわざ誘うくらいだからそうなのかと思ってたずねるとオッサンはウーンと首を傾げて、あんまり来たことないなあと返す。ふうんとうなずいててきとうに後をついて歩いた。春先で天井のガラスからはやわらかな日差しがさしていて、ジョージはふわあとあくびをした。
人気のない小さな水槽のエリアに差しかかったあたりで、ねえ、とオッサンが言った。
「ジョージくんはさ、その……他の人と、そういうコト、してるのかな」
ジョージはぱちくりとまばたきした。そんなことを聞かれるのはすこしだけ意外だった。普段のオッサンならそういう質問はしない。ジョージは唇に手を当てて考えた。
気まぐれに嘘をついてみてもよかった。あるいははぐらかしてもよかっただろう。でもなぜだかそうするような気にはなれなくて、ジョージはううんと首を振った。
「してないよ」
答えればオッサンはほっとした顔をして、そうかとうなずいてその話はもうしなかった。海の見えるデッキで虹色のパラソルの下に座ってお茶をして、お土産にはオッサンがかわいいという深海魚のストラップを買ってくれた。名前も知らない魚はなんとも前衛的なデザインだ。深海魚ってやつは暗い海で誰の目にもつかないから神様が手を抜いて作ったようにしかジョージには思えない。嬉し〜ジョイ♪っててきとうに言っておけばオッサンはニコニコと嬉しそうに会社のみんなへお土産を選んでいた。
「ここに来てみたかったのはさ、初めて見たとき、ジョージくんが水族館にいたからなんだ」
のどかな夕日のさす海辺の公園を歩きながらオッサンが言った。ジョージはキョトンと首をかしげる。えっとねえ、と男はたどたどしく言葉を選んだ。
「一年くらい前、たまたまつけたドラマで水族館のイルカの世話をするジョージくんが映っててさ」
「……あぁ」
それなら覚えがある。ほとんど最初のドラマの仕事だ。
「アレ、見てたんだ。二、三分しか出てなかったのに」
「ウン、でも、そのときのジョージくんがすごくかわいくてさ、こう……キラキラしてるっていうか、とにかくボクにはすごく特別にみえたんだよ。それからジョージくんの名前を調べて番組を録画するようになって、ああ、この子の笑ったり拗ねたり怒ったりする顔が、すごく好きだなあって思った。なんだかねえ、見てるとそれだけで元気が出るんだよ」
まぁ、それが行き過ぎてこんな風になっちゃったんだけど。オッサンはすまなそうにハの字の眉をして笑ってみせる。手にしていたペンギンのぬいぐるみをぎゅうと抱き、ううんとジョージは首を振った。
「ジョージ、うれしい。◯◯さん、いつもアリガト♪」
オッサンはなんとも言えない顔をして、それから気恥ずかしいような困ったような仕草で頭をかいた。なにかを言いよどむような雰囲気になに、とつつけばあのねとようやく口をひらく。
「それで、そのう、……ジョージくんに会えるのは、今日で最後なんだ」
「……え?」
ザラリと足元で小砂利がちいさく音を立てた。ジョージは瞠目する。気がつけば足もとに落ちていたペンギンを拾ってオッサンの痩せた掌が砂をぬぐっていた。風に舞ってサラサラと砂塵が吹かれてゆく。
「奥さんが、……いや、元奥さんなんだけどね、もともと体の弱い人で、その、しばらくボクが世話を見ることになったんだよ」
オッサンが何を言っているのかジョージは半分もわからなかった。わかりたくなかったというのが正しいかもしれない。オッサンは自分に言い訳をするみたいに、いや、と慌てて手を振った。
「いや、その再婚てわけではないんだけども、……でも、そういうわけだから」
だから、生真面目なこの人はたとえやましいことをしているわけではなくてもプライベートではもうジョージに会えないということなのだろう。
そっかと一言うなずくまで、いったいどれだけかかっただろうか。オッサンは神妙な顔つきでウンとうなずいて、いつものアウディでジョージを駅まで送ってくれた。車ではお互いなんにも言わなかったように思う。あるいはなにかを話したのかもしれないけれど、ジョージの記憶は薄ぼんやりとしている。
オッサンに対して恋愛感情があったわけでは多分なかった。父親の愛情を求めていただけでもなければ、友情というのもまたすこし違うだろう。それでもそのひとに対する営業だけでない感情はたしかにそこにあった。
オッサンとはそこで別れて、それきり連絡はとっていない。
「……それで、どうかな? 気持ちは決まった?」
マネージャーの声音にジョージはふと目を開けた。向かいでは手を組んだ男が時計を気にしながらジョージの返事を待っている。忙しい男だ、さっさとうなずいてみせろと言いたいのだろう。一人目のときだってジョージはさして迷わずハイと言ってみせたからこんなに長いこと黙り込むとも思わなかったらしい。男はふとやり方を変えるように口をひらく。
「ジョージくんねえ、評判いいよお」
「……ハア、ありがとうございます」
「ウンウン、そっちの才能もあるんじゃない? これからはもっと人脈を広げてみるのもアリなんじゃないかと思うけどなあ〜」
◯◯さんもね、それはいつもご満悦だったんだよ。不意に告げられたオッサンの名前にジョージはぴくりと肩を揺らす。高そうなブランドをまとった目の前の男が途端に矮小な存在に感ぜられた。オッサンはブランドを着ていてもいつも上品ですこしも嫌味に見えなかった。
ジョージはふと息を吐いて、ゆっくりと首を横に振る。
「……え?」
「すみません、今回の、……いえ、今後こういう話はお受けできません」
男はいささか意外そうな顔をしたけれど、そう、とうなずくとビジネスライクに立ち上がった。
「ま、いいよ。うちもさすがに無理強いまではしないからさ。気が変わったらいつでも連絡してね」
じゃ、お疲れさま。そう言ってポンと肩を叩くとマネージャーはアッサリと去って行く。ジョージははあっとパイプ椅子にもたれこんだ。なんだかんだ緊張していたのか腹のあたりが縮こまっていた感覚がある。
しばらくここには来たくないなと思った。この前だっていけ好かないお坊ちゃんとのゴーストシンガーの話を持ちかけられたところだ。まァジョージは売れるためならなんでもするのだけれど。
それでもとぼんやり机に頰をついた。それでもオッサンが悲しむようなことはなんだかしたくなかった。半年前この椅子に座っていたときはどんなに吐き気のするようなことだってやってやるつもりでいたのに、まったく毒気をすっかりと抜かれてしまった。ジョージはのろのろ立ち上がってウーンと伸びをする。
暗い廊下を歩いてエレベーターで一階に上がって、圏外だった携帯をひらくと知らないアドレスからメールがきていた。開けてみればそれはつい先ほど思い浮かべていた人物からのもので、今までの感謝とこれからも応援している旨が書かれている。遠慮がちなオッサンからメールがくるのは初めてだった。迷惑になるならこのメールは消してほしい、でもこの前はきちんとお別れが言えなかったからと綴られている。さよならの末尾では一生懸命考えてつけたらしい顔文字が浮いていた。
ジョージはふと笑ってありがとうと打ちかけて恥ずかしくて消して、さよならを言うには寂しい気がして結局楽しかったジョイとだけ返してオッサンの連絡先は消した。マネージャーの言いつけを破るのは初めてだったがなかなかどうしていい気分だ。エントランスを後にして外に出ると五月の青い空が広がっている。ジョージは携帯を胸ポケットにしまって歩き出した。深海魚のストラップがゆらゆらと胸元を泳いでいた。
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