【joji * ace】※モブ女中心※
しまった、事務所に傘を忘れた。
鈍い灰色の空を見上げてあたしは反射的に目を細める。ぽつりと目蓋へ落ちた水滴がコンタクトに流れこんでわずかにしみた。
パチパチと何度かまばたきをして、いったんスタジオへ戻ろうかしらと考える。同じ番組スタッフの誰かに頼めば傘の一本くらいは貸してもらえるだろう。くたびれたコンバースのスニーカーは一、二歩ほど迷って、けれど結局そのままの方向へ小走りに走り出した。ここから事務所まで走れば五分ほどだ。梅雨らしくパラパラと降るばかりで大して濡れずに着けるだろう。そう思って撮影所のスタジオとスタジオのあいだを走る。
新卒で入った撮影所はまるで、ほとんどそれ自体がひとつの町みたいだった。都心を外れた駅からしばらく歩いたところに東の門があり、カードキーを差し込んで電子錠を開けるとその先には大きなコンテナみたいな四角いスタジオがいくつもならんでいる。外から眺めるとどれも同じ箱に見えるから入社したてはどこが何番のスタジオか覚えるのも時間がかかったものだ。東の入口から反対の西門までは歩いて十分ほど、奥の北門はそれよりももっとかかる。
午前中に撮影をしていたのは西門側のスタジオで事務所は東門の正面にあった。あたしは昼休みのあいだにオフィスの資料を取りに帰ってそれから午後の準備をしないといけない。優雅にタレントと談笑するディレクターやプロデューサーと違って下っ端のアシスタントは休憩時間もせかせかしている。
手足をシャカシャカ動かしていると雨脚はすこしずつ強まって半袖の腕が濡れてきた。胸の前で軽く両腕を抱いてさすりながら早足に歩いていると、すれ違った傘にふと声をかけられた。
「あれ、Mさん。Mさんじゃない?」
「えっ……あ、い、池袋さん」
「どうしたの、傘も差さないで」
濡れちゃうでしょ、と彼はあたしに向かってその傘を傾けてみせた。人懐こい笑顔にほほえまれてどくりと心臓が音を立てる。プリズムスタァの微笑は星がまたたくみたいにキラキラしていた。
(……と、見惚れてる場合じゃなかった)
あたしはブンブンと首を横に振る。
「えっと、あの、事務所まで資料をとりに……でも、すぐそこですから」
大丈夫です、そう言う前に池袋さんは踵を返していた。そっか、じゃそこまで送るよ、親切な彼は当然のようにそう言って歩き出している。
本当にいいのだろうか。あたしはすこし迷った。池袋さんは役者さんだ。歳こそあたしよりも下だけれど撮影の現場では雲の上の存在みたいに偉い立場だった。スタジオでいっとういいイスを用意される彼とそのイスを朝一番に並べるあたしのあいだにはどうにも目に見えない壁があるように感じられた。
気が引けて思わず歩幅が遅れ気味になると、けれど池袋さんはほら、とこちらを振り返ってみせる。あたしはやはりわずかに躊躇して、それから厚意を無下にするのも悪いと思い直しておずおずとその傘の下に入った。ちらりと見やった池袋さんはとなりでニコニコしている。やさしい人だなとぼんやり思った。きっとあたしが居たたまれなさを感じないようわざとそうしてくれているのだ。雨に濡れた身体がなんだか毛布にくるまれたみたいに温かくなった気がした。
そういえば、といささか冷静さをとりもどしたところであたしは思い出す。
「あの、……名前」
「え?」
「あたしの名前、覚えてくれてたんですね」
「あぁ」
なんだ、そんなこと、と彼ははにかんでみせた。
「当たり前だよ、このあいだだって、コーヒー用意してくれたし、アシスタントの仕事だって細やかだし」
彼がそんな風にさらさらと言うのであたしは今にも舞い上がって倒れてしまいそうだった。池袋さんと仕事で一緒になったのは今のドラマのプロジェクトが初めて、撮影は二度目だから会うのは今日が二回目だ。まさか仕事始めにスタジオでみんなで輪になって名乗ったていどのアシスタントを覚えているなんて思いもしなかった。Mというありふれた名字をなんとも思ったことはなかったけれど、彼がそれを口にしただけでそれは急に特別ななにかになったように感じられた。だって今回の撮影に本当はあたしはアサインされていなくて、上の人になんとかお願いして入れてもらったのだ。あたしはテレビでひと目見たときから池袋さんのファンだった。
憧れのスタァと一本の傘の下で、けれどあたしは何を話せばいいのかわからない。だって突然世界一幸せなお姫さまになったみたいなのだ。すぐそばでは男物のシャンプーの匂いがしている。爽やかな香りは雨の湿気でよけいに強くてクラクラした。
頰が赤く染まるのを恥ずかしく感じながら目線を下へ向ければ水たまりには疲れた顔したアシスタントの姿が映っている。あたしはあわあわと前髪を直した。連日遅くまでの残業で疲れていたから髪の毛も後ろでひとつにくくったきりだけれど、こんなことになるなら朝どんなに眠くたって今日ばかりは可愛く巻いてくればよかった。茶色く染め直すヒマがないからてっぺんのあたりは黒髪が目立ち始めてしまっている。服だってタンスから引っつかんで出してきたから季節外れの色をしたカットソーだ。流行りのTシャツを着こなす池袋さんと見くらべるとなんとも不釣り合いに見えた。
ぺしゃんとしぼんだ風船みたいにあたしは途端に悲しくなった。おまけに正面には事務所がすこしずつ近づいてきている。さっきまでは早くあそこにたどりつきたかったのに、今はすこしでも長いことこの傘の下にいたいのだから我ながらまったく現金だった。
暗い気持ちで雨空の下を歩いていると、ふと、すぐそばで軽快な音楽がきこえた。顔を上げればとなりの池袋さんと目が合って、ウインクをした彼は器用に唇を震わせて口笛を吹いてみせる。あたしはおもわず立ち止まってまじまじと聴き入った。どこかで聞いたことのある歌だ。曲名は思い出せないが明るく飛び跳ねるような曲だった。池袋さんは空を見上げてのびやかにその喉を震わせている。あたしはつられて上を見た。
(……あ)
そこに広がっていたのは青々とうつくしい空だ。池袋さんの傘は透きとおった明るい水色で、雨の下でも晴れ空みたいにきれいだった。薄暗い雨雲の中でまるでここだけぽっかりと晴れているみたいだ。
(ああ、……ああ、)
それは自分がドラマのワンシーンになったような錯覚だった。その一瞬あたしはたしかに彼の主演するドラマのヒロインだっただろう。彼の口ずさむ主題歌はあたしをなぐさめるようにやさしく響いて雨の音すらもそれにあわせて歌っていた。明るい水色の傘の下で、その一瞬はあまりにもうつくしくそこに在った。
雨はそれから思い出したように止んで、けれど自分を忘れるのを許さないような激しさで降って、からかうようにときどき弱くなって、あるいはしとしとと降り続いた。複数のプロジェクトはあいかわらずせわしなく並列に進行してひとつが終わればまたひとつが始まってゆく。日付が変わる前に家に着ければ御の字で一週間の半分は化粧を落とす間もなくベッドに沈んでいた。若手が一番にスタジオを開けるので朝は早い。
目の前のタスクをこなすだけでめまぐるしく過ぎてゆく時間の中、ふとした合間にあの日のことを思い出した。
夢みたいな時間だった。あたしはあの瞬間のことを思うだけで胸がいっぱいになる。歌う彼の横顔はうつくしかった。はしばみ色の瞳はそうするのが好きでたまらないとキラキラきらめいていた。テレビで聴くよりずっとやさしい声音だった。
はあ、と洗濯機にもたれてため息をつく。撮影で使った小物類を洗いに撮影所の隅にある洗濯場にきていた。スイッチを入れて事務所に戻って事務仕事をこなして、タイマーが鳴ったので自転車でここまでもどってきてあと数分後に洗濯機が止まるのをひとり待っている。薄暗い洗濯場はスタッフしか出入りしないからじめっとしてほこりっぽかった。入口の古びたすのこをテントウムシがのんきに散歩している。ベンチに座って見上げた向こうでは夕立の気配がしていて今にも降り出しそうだった。レインコートを羽織ってきたけれどやはり降ってほしくはない気持ちで、洗濯の終わったピッという音がするのであたしは立ち上がる。白いネットを自転車のカゴに入れながら、ふわあとあくびがもれた。例の池袋さんが出るドラマの撮影が今日でひと段落したので今夜はすこしだけ早く帰れる。
眠い頰を軽くたたいて自転車に乗って、スタジオの間をすこしいったところでけれどあたしははたと車輪を止めた。
建物の入口にあの傘が置かれている。あの、うつくしい水色の透きとおった傘が。
あたしは自分の鼓動が早鐘のように打つのを感じた。食堂の入口の傘立てだ。撮影が終わってお茶をしているのならすぐにはもどってこないかもしれない。一緒にいるだろうディレクターは長っ尻で有名だ。
心臓がばくばくと鳴っていた。魔がさしたというやつなのだろう。ばかみたいだけれどあの傘があれば、あのうつくしい瞬間を切りとって永遠に自分のものにできるようにそのときのあたしには思えたのだ。
あたしは自転車を下りてゆっくりと止めて、そうしてその傘にすっと手をのばした。プラスチックの柄をつかんだ瞬間なんともいえない高揚が胸をさらって、そうしてふと気付いたときには向こうでざわざわと話し声がしている。あたしは慌てて食堂の裏手に身を隠した。両手でぎゅっと傘を抱いてゴミ捨て用の収納庫の裏側にしゃがみこむ。
ややあって、あれ、という声が聞こえた。うっすらとした罪悪感が胸の内をかすめるのを感じながら、あたしはそっと耳をすませる。彼の声だ。困ったような声音にちくりと胸が痛む。
なんだよとその向こうで聞き慣れない声がした。
「おまえ、こんな天気で傘持ってねーのかよ、ハン、バカじゃねーの」
「う、うっさいなぁ! ……ここに置いといたはずだけど、ないんだよ」
「フーン? ……ま、いーけど」
バサリと傘を開く音がした。金網の陰からちらりと目を出して向こうをみる。ざらりとした感触がお腹の内側をなぞった。
彼は自然な仕草でその傘に身をよせた。奥に見える横顔は彼の事務所の先輩の、誰でも知ってる国民的スタァだ。なぜだか直感的に、あたしはそれを見たくないと思った。それでも吸い寄せられるみたいに目が離せない。池袋さんを車で迎えにきたところなのか二人の足は向こうの駐車場へ向かっている。スタァの長い指は当たり前みたいにとなりを歩く彼の肩を抱いた。池袋さんはちらりと周りを気にしたふうな顔して小さく肘鉄を返す。食らった側はわき腹をおさえるポーズをしながらけれど楽しげだった。指先はふらりと空を切って彼の赤い髪をゆるやかに撫ぜる。
世界にパキリと亀裂がはいったような気がした。スマホの画面が壊れたまま使っている人をときどき見かけるけどそれみたいだ。
あたしはその瞬間、その二人のあいだにけして自分がひとかけらも入りこめないということをわかってしまったのだ。
傘を一本手に入れてみてもあのひとのこころはひとつもあたしのものにはなりはしない。あのひとがほんの束の間でも自分を振り返ってくれることをあたしはもう願うことすらできはしない。だって頭を乱暴に撫でられてむっつりとしたふりをして、あのひとはそれからたまらなく幸せそうに笑ってみせた。そのよろこびがすこしでも翳ることをあたしは祈れない。
へなへなと腰の力が抜けた。キュロットの裾が濡れてじわりと下からにじんでゆく。あたしは手にした水色の傘をぼんやりと見下ろして、それからゆっくりと広げてみた。泣きたいくらいにきれいな青空だ。明るい水色がついさっき見送ったうしろ姿にすこし似ていると思ったところであたしはああ、と顔を覆った。あのときの口笛はあの水色の髪をした彼の歌だったのだ。どこかのランキングできいた曲のタイトルを今さらに思い出していた。
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